昔の文章

自分がいまここに在るという感覚をもとからある様々な概念の形式にのっとって自分に当てはめてゆくという事ではなく、自分にとって極限までリアルな感覚が残る状態のみを足がかりにしてじんわりじわりと浸され熟成されるのを待つ。

これが私の簡単な表現方法だが、

すこし嘘がある。もとからある概念の形式抜きに物事を考えることなどさっぱり出来ていない。多種多様な構造的な概念はわたしたちが意識せずとも常にかたわらにあり、結局はぬか漬けのようにどっぷりと首までつかっていて、そう簡単に抜け出せる状態にはないのだが、だからといって少しも抵抗しない事は問題なきもする。

 

そこを脱する事だけにこだわっているわけではないが、予感はある。

 

なんでもそうだが慣れ親しんだものからすこしだけ外れると大変呼吸がしやすくなる。 そして視界が一気に広がりをみせる。 

と思った瞬間すぐ閉じてしずかになる。  

そのほんの瞬間のひろがりは幻想とかでは決してない。

気持ち悪いくらいのリアルだとおもう。

 

その隙間はほんと一瞬でちいさい。でもわたしはそのカスに全幅の信頼をよせている。

 

 

昔、 多摩美受験後に坂をくだっていると街がみえた。

よくある感じの屋根が並ぶマチナミ。鳥が飛んで、車が動く。

綺麗な夕日はでていたが神経のつかいすぎのせいか何もかんじなかった。

ただあるものを目に入れてあるいていたというかんじであったが、

突然     

ボアン 

犬がないた。

その音を聞いた途端、四方八方にぐんぐんのびて

多角的に自分がひろがっていった。

その時の感覚はさっきのとおなじだと解釈している。

とても感動した。決して夕日に感動したわけではない。

世界に存在しているというリアリティを何かの後ろ盾なしにダイレクトに感じた恐ろしい感動だった。

 

概念の沼はナンジュウコウゾウにもなって私達の意識の中に沈殿してしまっているようにかんじる。簡単にいっぺん取り出してみるとゆうような事は難しいけれども、せめて制作する時だけはすっかりと抜け出せる予感のような気持ちを保ちつつ悪あがきしていこう、とおもうのです。