先日電車に乗っていて、手に持っていた文庫の余白にきれいな模様を発見した!
すぐに指でなぞるとフワッと動いた。それは影だった。窓ガラスの汚れとか傷の影が紙にうつっていたのだ。
いやいや、、久しぶりにぶわぶわきた。
ぶわぶわきたってのは、私的にはいい表現で、自分が気になっている感覚に触れたかんじ。
琴線にふれるとまではいかない予感めいた感じかな。
同時に小学生から飛蚊症なので、さっきの模様が飛蚊症のそれに似ていたので何だか馴染みの感じもあった。 飛蚊症のひとならすぐわかると思う。あれねw
ここ最近は数が増えている。
ガラス体が老けて傷ついたりで生じたなにがしかのものが綱膜に影としてうつっている。
みみずみたいな、ミトコンドリアみたいなものが、、、眼球を動かすと面として平行に動くのもまた独特だ。小さいころは時々あらわれるレアなやつだったので、またでないかなーと、いろんな角度から眼球を動かしたりしていた。
考えてみるとどちらも影なわけで、自分の体内で馴染みのあるものの現象が形や意味は違えど外側でみれたその解放感でぶわぶわきたのかもしれない。
でも結局それをみてるのは私に還元されるのだけども、、、、
旦那さんがお仕事だったので仕事できていた実家に急遽泊まり、久しぶりにコンタクトを捨てるしかない状況となった。
翌日裸眼で帰る。
剥き出しなので寒さがきゅうーとしみる感じのする眼球。
コンタクトきっと眼に悪いんだろうなとおもいつつ、メガネより格段に動きやすいし思考も働くからいまだにやめられまへん、、、。
視力はかなり悪いので裸眼で外を歩くのはかなり危険!もやあとした色とかたまりしかわかりまへん。
でもだんだんとこれは、、病み付きになるかもなと、、、、。✨
全体的に夢の中のようなぼんやりしたイメージのような世界。実際に目で見てないような。
さらに道行く人の顔も目、鼻、口全部消えるくらいぼわんとしてるので視線の合わない安心感でぬくぬくしてられる😄
自分の顔も消失しているように感じる。
さらにさらに魚のように目を広げていって空間認知を一度外してみたらどんなかなーとかとか。
また裸眼で散歩しよう。
ひとつのことに実感するのにけっこうな長い長い時間を要したりしますよね。
ずいぶん前ですが、制作でやりたいことが山積みで、とにかく手を動かしたいという欲求が強い時期がありました。あーだコーダをくりかえし、一年経って、[あ、奥行きがだしたかっただけなのね]と気づきました。絵で奥行きを出したいなんてみんなが考えること、模索すること、当たり前のこと過ぎてとっくに自分はそんこと考えていないとおもっていたのですが、じつはそんな単純なことを体は理解したがっていたという事実にびっくりしました。
そこで奥行きを出したい!と模索して得たものは強い柱があるような感覚としてのこっています。やはり手を動かすこと、体を動かすことでしか会得できないものは確実にあって、そこからの実感はなによりも強いものになるんだとおもいます。
その回路を増やしてけば本当のいみで [わたしの感覚として] 世界が掴めるんだなー。
よく言葉にできないのは理解していないと同じという言葉を聞きますが、それは本当にそう。でも言葉に換言できなくて固まりとして放置することも重要なきがするのです。なんとなくわかるという感覚、言葉では拾えない感覚があるからこそ表現というものが必要。なんですよねー
以前は孔子よりも老子が好きでした。
今でも好きですが。
論語は人間のつくった社会の中での話で
なんか窮屈だなー
と感じてしまっていました。
最近結婚しまして、日常を前にすると孔子も
けっこう良いこといってるんだなー、、
と思ったり。(偉そうw)
今まで避けてきたものの中にまだまだ
わたしの知らない良いものは転がっているんですよね。
ただ、その直感で避けてきたって事によっ
て、その人をその人たらしめているわけです
からね。
ひとそれぞれ塊は違うわけですよね。
大人になったら価値観なんてそう簡単に変わらない。
ただ結婚って、他人の価値観を嫌でも受け入れなくてはならない。それも表面的にではなく、自分の骨身に染みるまで一回深く入れないといけない。
それで絶対無理となるひともいればうまく融合していく場合もある。
固まった価値観を他人と練り合わせてより柔軟で強いものにしていけるのが結婚なんだって思いました。最近。
よく人生は一人でいきるのが辛いから結婚したほうがいいと聞きますが、もっともっといいもんで凄いことじゃんか!!と思っています。最近。
Facebookでもシェアしたことなのですが、ここを読んでいる方にも是非読んでいただきたいブログです。勝手にご紹介してしまってますが、大丈夫なのだろうか?後ほど連絡をさせていただきます!
http://izoomi-momo.jugem.jp/?eid=1243701
本当に素晴らしいんです、デッサンって。美術を学んでいない方も絶対やればいいのにといつも思うのです。ものの見方、私は人生観が変わりました。コレ本当です。
デッサンの方法論はいくらでもあります。
こうすれば上手くなるという、結果だけ教えていればそれで上手くなるかもしれません。ただそれでは小手先の技術が身についただけでデッサンの一番優れた部分の物事を思考する力は全く身についておりません。
本質には全くたどり着いてないっチューことです。
これはとても勿体無いことで、多くの方は時間が無いからという理由でデッサンにかける時間を効率化し早く上手くなろうとするか、やらないかです。
デッサンはただ絵が上手くなるだけの方法ではありません。それだけに押し込めてしまうと本当に悲しくなります。
しっかり描けるようになると自分の位置が見えてくる。
それが世界に、さらには宇宙にまでつながると言う方もいらっしゃいます。
ただ見て描くということも突き詰めれば思考を変えるだけの力があるのです。
ただそこまで理解するには一つ一つ自分で描いて気づいていくしか方法はないのです。正直、長旅です。
私はどんな人間でもやる必要があると思うので、例え時間がかかっても頑張って欲しいです。特に今まで合理的に生きてきた方には是非やっていただきたい、、、。
またこれについてはゆっくり書きます。。。
雨ジャーーー
何かを信じることは大切なことなのですが、芸術に関して言えば信じるというスタンスは捨てるべきだとおもうのです。
アートプログラム青梅会期が来週までとなった。アートの文脈からの思考もさることながら自分の制作を真摯に行っている作家が殆どだった事に驚いた、皆さんの作品を拝見して、『連綿と』『つらなり』というワードがずっと頭の中をグルグルしていた。シンポジウムの際にも話に出ましたが、作家の崇高性という話で、やはり何かを作るという行為は時代を超え、普遍的なものに触れれる唯一の機会なのである。そこを見据えず制作する事も出来るがやはり私にそれはできないと強く思った。ただ、アートの文脈にのみ縛られる事もしたくはない。
私の表現の唯一の目的はこの世界の成り立ちを探るという事、自分の先端に常に立ってそこを掴んでゆく事それのみだ。人間は何のために行きているのかその大前提抜きに私達は生きている。 自分の先端に見えたものを公表し、例えばそれを違うジャンルの人がみてイメージを膨らませていくといったようなことだ。それぞれが宇宙の構造をふくんで生まれたのだからそれぞれの人がその人にしか見えない先端を公表しあえばなにか突破出来るかもしれない、なんて風に考える。ただそれは途方もない事であるがとにかく私は自分の先端のみ見据えていけばおのずと急がば回れで普遍に触れる事が出来ると信じています。
青梅に出す作品を一区切りつけました。
アトリエからの帰り道、
家の近くに出来た新しい道を思い出して歩いてみた。
どう考えてもいらない道。出来た所で混雑緩和にもならないし。
本当に意味が分からない。税金の無駄遣いしていらない道路作りやがって、、、ボロクソに思っていた道路。
歩いてみたら今まで見えなかった位置から色々見えてこれがこの道の良い所かとムカムカしなくなった。
後で見返すと何だかはずかスィー思いをする人はわたしだけではないず!
なんだか妙に自分によってしまう、
麻薬ですよね。