芝居構想drawing

今考えている脚本の内容のdrawingシリーズを描いています。

描くと内容が客観的にみれるので非常に助かっています。

 

網戸から透過していく肉体が最初のイメージです。

個の肉体は内側で変化してはいるものの肉体より外へ出れずにいますが物質のなんらかのルールの変化によって網戸から透過した肉体はバラバラに分解し散在する。 バラバラの肉体は開かれた存在としてネットワークをつくってゆくってな感じなんです。

小さい頃団地に住んでいたのですが、夏に四畳半から窓の外を眺めていた記憶が強く残っていて、網戸に顔を押し付けたらところてんみたいになるのかなあと考えていたのが発端となっています。(笑)なんてことない小さい頃の記憶なんですが物質として記憶も変化することで今私が感じている知覚と繋がって実際そこにいたように今、知覚することができているきがするんです。同じようにかつての知覚をいまにひっぱりだしていろんなものを感じているんだろうなあとも思います。そこはまだ実感として感じれてはいないんだけれど、、、。 現在も過去も地続きの感覚。

 

思考はぐるりんぐるりん自由でたのしいな!

 

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芝居 身体表現

以前、大学の文化祭で一人芝居を行ったことがある。

大学に入る前は舞台役者の勉強もしたりしていたのだが、役を演じるということよりも身体の不思議さに目がいってしまいプロの役者として生きていく素養がないと感じ諦めたのだ。その後、趣味で始めた絵画教室から美術の世界にのめり込んで行ってしまった。

 

稽古などをしていると否が応にも感じる自分の身体の変化。ちょっとした体重のかけ方で変わる重心の位置であったり、腹這いになった時の内臓が床に当たる感覚が面白いこと、ちょっと膝を打とうものならその痛みの感じ方をじっくり味わってみたり、いちいちが気にかかり散漫で、演じること自体は楽しいのだが求められる自然な感情を入れて芝居するのが苦手だった。

 

大学の頃に行ったものは「ツグリのひも」という自作自演のお芝居の形のもの。

それまで世界は何某かに支えられ存在しているというような安心感で生きてきたが、気づくとなんの理由も根拠もまだわからないという存在に絶望し、その時に紐が切れたような、浮遊しているような感覚になった体験を思い出して作ったもので、認識が変わった瞬間のことをお話にまとめた。

 

今改めて日々感じるのは、自分の身体がここに在るという証明がしたいということ。自分では本当の意味で見ることが絶対できないという自分のことをリアリティを持った感じ方をしてみたい。

 

 

 

 

油性と水性


シルクの油性は体にとてもよくない



ということで、海外や日本の大学でも油性は


使わない方向にあります。


わたしも卒業してから何年かは使っていまし


たが、しだいに不調がでてきたので今は使っ


ていません。





不調というのは、


疲れがとれなくなり朝おきて布団のうえで石のようにうごけなくなる、


肌が荒れる。(わたしの場合は特に脇がただれていました。)



辞めて三年ほどたった今は全くなったので、


やはりよくないものだったんだなと。


ただ、よくないものというのはほんと魅力的


で、油性のインクからでる艶や深みは本当に


綺麗です。


いまでもときどき無性にまたつかいたくなる


のでもう死んでもいい時期になったらまたや


ってみようかと考えてます。




油性から水性にきりかえ、しばらくは水性が


きにいらなくて、いやだいやだとおもってい


ました。


なんか軽くなるし、油性と同じ感覚て和紙に


刷るとにじんでしまうなど、初めは実験を繰


り返し、なんとかいまの技法で一段落、、、



とおもいきや、


いま知人のウェルカムボードを制作中なのす


が、ふと軽い気持ちでやった油性と同じやり


方がすんなりできてしまい、やれないものと


決めつけてやってみなかっただけだなーと。





水性の幅が広がり今私はそれはそれは嬉しいのです。

反復

おなじものがくりかえされる、版画。

なにかの模倣の芝居。

なにかすでにあるものを反復することが似ています。

 

 

「反復」とはおなじものをただ繰り返していくことではなく、少しずつ変化し前に進んでいく流動的な意識が必要と、ドゥルーズもいっています。多分。


芝居はある感覚を呼び起こしそれを模倣していく。その流動性は同じことをしても激しく変化し身体を感じざるを得ない。

それが好き。

 

 

どんな、小さな出来事も、つねに変化しとどまることなく流動している。皆一緒だと思った瞬間から人間の思考も可能性も止まる。

小さな変化を見逃さない感性が大切ですね〜。

 

 

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デッサン

Facebookでもシェアしたことなのですが、ここを読んでいる方にも是非読んでいただきたいブログです。勝手にご紹介してしまってますが、大丈夫なのだろうか?後ほど連絡をさせていただきます!

http://izoomi-momo.jugem.jp/?eid=1243701

 

 

本当に素晴らしいんです、デッサンって。美術を学んでいない方も絶対やればいいのにといつも思うのです。ものの見方、私は人生観が変わりました。コレ本当です。

 

 

デッサンの方法論はいくらでもあります。

 

こうすれば上手くなるという、結果だけ教えていればそれで上手くなるかもしれません。ただそれでは小手先の技術が身についただけでデッサンの一番優れた部分の物事を思考する力は全く身についておりません。

 

 

 

本質には全くたどり着いてないっチューことです。

 

 

これはとても勿体無いことで、多くの方は時間が無いからという理由でデッサンにかける時間を効率化し早く上手くなろうとするか、やらないかです。

 

デッサンはただ絵が上手くなるだけの方法ではありません。それだけに押し込めてしまうと本当に悲しくなります。

 

しっかり描けるようになると自分の位置が見えてくる。

それが世界に、さらには宇宙にまでつながると言う方もいらっしゃいます。

ただ見て描くということも突き詰めれば思考を変えるだけの力があるのです。

 

ただそこまで理解するには一つ一つ自分で描いて気づいていくしか方法はないのです。正直、長旅です。

 

私はどんな人間でもやる必要があると思うので、例え時間がかかっても頑張って欲しいです。特に今まで合理的に生きてきた方には是非やっていただきたい、、、。

 

またこれについてはゆっくり書きます。。。

 

 

 

 

雨ジャーーー

 

 

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信じる

何かを信じることは大切なことなのですが、芸術に関して言えば信じるというスタンスは捨てるべきだとおもうのです。

 
知ることは大事だし好きな作家等いて然るべきとおもいますが、普遍的な事や自分の内側からでてきたもの以外は信じるべきではない。
 
その基本スタンスができていないでしがらみや色んなよけいなものばかり気になるようなら本質にはたどりつけませんよね。 
 
自分に言い聞かせる意味でも書きましたが、現代がクリアな芸術界になってほしいなとゆう思いを込めて、、、。
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リアリティ

リアリティを感じる
ということはよっぽど感覚が鋭敏なときでないと
感じられない感覚だとおもう。
リアリティという言葉の意味が
日常でも使われるものなので単にリアルだとか、
本物っぽいとゆうような感覚でつかわれているから
余計わかりづらい。
美学や美術、哲学で使われる際の
リアリティ
の言うところの言葉は新しく作ればいいのにと思う。
自分がここに在るということをありありと感じる感覚だ。
人の話や絵を聞いたりみたりして、現実と比べて
「リアリティがあるね」
とゆう感覚とは訳がちがう。
私は生涯に本当の意味で感じたことはほんの数回。
はっきり感じたのは23歳の一回だけ。
頭がボーっとしてるときなんかは全く感じれないです。(でも以前書いた、脳をつかいすぎた多摩美受験のときは別でしたが。) 雑多なことにうもれてると、なかなか感じれないんだなー、これ!
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ひびく

わたしの行っていることは一部の人からみたらなんの特にもならない、なにもかんじられないものかもしれない。たまに似た感覚の人には響くのかもしれない。結局自分の中にあるものにしか人は反応しないし響かない。それが自分の外側の他者が表現していたり言っていたりすると感動するんですよね〜。本の文章も自分の中にある求めている部分にしか感動しないし、反応しない。でもできるだけ自分の求める感覚は広げていけるようにしたいと思います。

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ひょうげんの動機

アートプログラム青梅会期が来週までとなった。アートの文脈からの思考もさることながら自分の制作を真摯に行っている作家が殆どだった事に驚いた、皆さんの作品を拝見して、『連綿と』『つらなり』というワードがずっと頭の中をグルグルしていた。シンポジウムの際にも話に出ましたが、作家の崇高性という話で、やはり何かを作るという行為は時代を超え、普遍的なものに触れれる唯一の機会なのである。そこを見据えず制作する事も出来るがやはり私にそれはできないと強く思った。ただ、アートの文脈にのみ縛られる事もしたくはない。

私の表現の唯一の目的はこの世界の成り立ちを探るという事、自分の先端に常に立ってそこを掴んでゆく事それのみだ。人間は何のために行きているのかその大前提抜きに私達は生きている。 自分の先端に見えたものを公表し、例えばそれを違うジャンルの人がみてイメージを膨らませていくといったようなことだ。それぞれが宇宙の構造をふくんで生まれたのだからそれぞれの人がその人にしか見えない先端を公表しあえばなにか突破出来るかもしれない、なんて風に考える。ただそれは途方もない事であるがとにかく私は自分の先端のみ見据えていけばおのずと急がば回れで普遍に触れる事が出来ると信じています。

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アートプログラム青梅2015

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