感謝

いまはもう会えない大切な人たちにどう感謝を伝えるか。

 

 

感謝の音をかき鳴らしてとばした振動がおばあちゃんのみみを響かせるのだろうか。

 

絵に込めた想いが昇華するのだろうか。

 

最近夢で一緒に住んでいたおばあちゃんが頻繁にでてくるようになった。

当たり前のようにして一緒に生活してたころのようにでてくる。

 

それから今はもう会えない大切な人も夢に出てくる。毎回嬉しくて嬉しくて泣いて終わる。目が覚めると実際会ってはいないのにその人のエネルギーだけは残る。それだけでも十分パワーになる。存在してるってものすごいエネルギーを放出してるんだと感じる。

 

おばあちゃんは何も言わない。言わないけど本当に毎回ありがとうと思う。

あなたのおかげでいまがあり、今でも勇気と起爆力をもらいます。

 

感謝の思い、伝えられる人にはうるさい、もうわかったからと言われるくらい思う存分伝えておこうと思う。

 

ありがとうございます。

 

 

かげ



教室に来てくれてる子と話していて、文字はかげのようなもの。ということばをきいた。ことばはふしぎだ。こんなにも身近なのに実態がない。実態はないけど印刷することによって現れるかたち。いうなれば版の物理的痕跡だな。書いても一緒。筆跡は筆記具の物理的痕跡。それを影のようなと表現した人が素敵だなと感じた。


そう考えると描くことも痕跡。文字とは形の意味の含まれ方が違うが、その人のダイレクトなかげだ。

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飛蚊症

先日電車に乗っていて、手に持っていた文庫の余白にきれいな模様を発見した!

すぐに指でなぞるとフワッと動いた。それは影だった。窓ガラスの汚れとか傷の影が紙にうつっていたのだ。

いやいや、、久しぶりにぶわぶわきた。


ぶわぶわきたってのは、私的にはいい表現で、自分が気になっている感覚に触れたかんじ。

琴線にふれるとまではいかない予感めいた感じかな。



同時に小学生から飛蚊症なので、さっきの模様が飛蚊症のそれに似ていたので何だか馴染みの感じもあった。 飛蚊症のひとならすぐわかると思う。あれねw

ここ最近は数が増えている。


ガラス体が老けて傷ついたりで生じたなにがしかのものが綱膜に影としてうつっている。

みみずみたいな、ミトコンドリアみたいなものが、、、眼球を動かすと面として平行に動くのもまた独特だ。小さいころは時々あらわれるレアなやつだったので、またでないかなーと、いろんな角度から眼球を動かしたりしていた。


考えてみるとどちらも影なわけで、自分の体内で馴染みのあるものの現象が形や意味は違えど外側でみれたその解放感でぶわぶわきたのかもしれない。



でも結局それをみてるのは私に還元されるのだけども、、、、



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コンタクト

旦那さんがお仕事だったので仕事できていた実家に急遽泊まり、久しぶりにコンタクトを捨てるしかない状況となった。

翌日裸眼で帰る。


剥き出しなので寒さがきゅうーとしみる感じのする眼球。

コンタクトきっと眼に悪いんだろうなとおもいつつ、メガネより格段に動きやすいし思考も働くからいまだにやめられまへん、、、。


視力はかなり悪いので裸眼で外を歩くのはかなり危険!もやあとした色とかたまりしかわかりまへん。


でもだんだんとこれは、、病み付きになるかもなと、、、、。✨


全体的に夢の中のようなぼんやりしたイメージのような世界。実際に目で見てないような。


さらに道行く人の顔も目、鼻、口全部消えるくらいぼわんとしてるので視線の合わない安心感でぬくぬくしてられる😄


自分の顔も消失しているように感じる。


さらにさらに魚のように目を広げていって空間認知を一度外してみたらどんなかなーとかとか。


また裸眼で散歩しよう。

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必然性

表面とは間である。surface is the between

井田照一さんの有名な概念です。学生のころ目黒区美術館で井田昭一さんの作品を拝見し、石のお話もその時知り、当時版画をおこなっていた私はいたく感じ入りました。

その当時粘土の作品を石膏取りしたときに、外側の型をとって内側に石膏をいれて表面をつくるってことに必然性を感じました。そうでしかなりえない。必然性。

それと同時に表面てなんなんだと新しい感覚にもんもんとしたことを覚えています。表面をみたときに内側からせりでてきたものであることを意識しないといけない。

井田照一さんの概念はそこにプラス外側の関係もはいってるんですよね。

このときから必然性というワードが重要になりました。

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るどん

お久しぶりの投稿です。


最近は環境もかわりなかなか表現することから遠ざかり気味です。 このあいだルドンをみてきました。三菱一号館美術館でやっている、あれです。

 最初の部屋にある木の絵が一番感動した。描くとは解釈すること、自分を介入することだとおもう。ので、まさに描いてある木だった。そのままかいたのではなく、見て感じて解釈する。過度にえづくりしすぎてないせいか真摯にみたルドンの感覚がのこっていたきがした。

一瞬ですが少し泣きそうになりました。

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実感

ひとつのことに実感するのにけっこうな長い長い時間を要したりしますよね。

ずいぶん前ですが、制作でやりたいことが山積みで、とにかく手を動かしたいという欲求が強い時期がありました。あーだコーダをくりかえし、一年経って、[あ、奥行きがだしたかっただけなのね]と気づきました。絵で奥行きを出したいなんてみんなが考えること、模索すること、当たり前のこと過ぎてとっくに自分はそんこと考えていないとおもっていたのですが、じつはそんな単純なことを体は理解したがっていたという事実にびっくりしました。

そこで奥行きを出したい!と模索して得たものは強い柱があるような感覚としてのこっています。やはり手を動かすこと、体を動かすことでしか会得できないものは確実にあって、そこからの実感はなによりも強いものになるんだとおもいます。

その回路を増やしてけば本当のいみで [わたしの感覚として] 世界が掴めるんだなー。


よく言葉にできないのは理解していないと同じという言葉を聞きますが、それは本当にそう。でも言葉に換言できなくて固まりとして放置することも重要なきがするのです。なんとなくわかるという感覚、言葉では拾えない感覚があるからこそ表現というものが必要。なんですよねー

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すりあわせ

以前は孔子よりも老子が好きでした。

今でも好きですが。


論語は人間のつくった社会の中での話で


なんか窮屈だなー


と感じてしまっていました。


最近結婚しまして、日常を前にすると孔子も


けっこう良いこといってるんだなー、、


と思ったり。(偉そうw)



今まで避けてきたものの中にまだまだ

わたしの知らない良いものは転がっているんですよね。


ただ、その直感で避けてきたって事によっ


て、その人をその人たらしめているわけです


からね。


ひとそれぞれ塊は違うわけですよね。


大人になったら価値観なんてそう簡単に変わらない。



ただ結婚って、他人の価値観を嫌でも受け入れなくてはならない。それも表面的にではなく、自分の骨身に染みるまで一回深く入れないといけない。


それで絶対無理となるひともいればうまく融合していく場合もある。


固まった価値観を他人と練り合わせてより柔軟で強いものにしていけるのが結婚なんだって思いました。最近。


よく人生は一人でいきるのが辛いから結婚したほうがいいと聞きますが、もっともっといいもんで凄いことじゃんか!!と思っています。最近。



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昨年から

昨年から自宅でこどもの教室を始めました。

別の仕事を卒業したら大人の教室もはじめるつもりです。

まだ現在2名、甥っ子入れて3名の教室ですが、毎回なにかにつながりそうな予感で終わります。

こどもを教えることに関してはまだまだですが、一緒にその瞬間をどうして行くか、そうゆうシーンが突如現れた時はそわそわします。

知恵比べのような、こちらが気を抜いていると持って行かれてしまうようなパワーがあります。ただただ楽しいです。

こどもの中にある流動性に少しでも波乗りしたい一心でくらいついていきたいです。

 

 

たたらったったー

 

ひょうげん教室

hyougenatelie.jimdo.com

 

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みたいに

~のようにしたいがすべての芸術の初動機だとおもう。つまり、現在あるもの、外の世界を模倣すること。

 

人の祖先は、あの牛のように描きたい。

 

あの鳥のように動きたい。

 

 

とよく観察をして各々の表現へと転化していった。

 

 

となると、[あのような]と考えるさいのイメージ力とはなによりも大事で、さらにそれが表現したいと至らしめる感性、感覚とはなんと素晴らしいことか。

やはり芸術において感性の排除なんてありえないよ。

 

 

昔から私は作品の内部に地層のようなもの、積層している何かの内側をつくりたいなとイメージしている。

それを見えるようにしたいのか、内側にあるようにしたいのかはまだよくわからない。

 

~のように作りたいということだけに固執するのは表現ではないが、そこから離れた表現ばかりしていると~のように作りたいという感覚を取り戻さなきゃ!という意識が生まれる。

 

おそらく、外の世界と内的世界を結ぶバランスのようなもので、表現するさいの後ろ楯がそれなんだとおもう。

 

何かを画面に描くということはそれだけで外の世界と内的世界を結ぶ架け橋になっている。

外の世界と断絶した脳だけの表現では先細りし、実らない。

外とのアクセス方法は模倣以外にもきっとあるのかもしれない。どのような形でもいいから外の世界と関係を結ばなくてはいけないと思う。

 

 

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あーびばのんの

寒い寒い中凍えながら帰っていたら、

 

い い ゆ だ なー

あ ははー

 

い い ゆ だ なー

あはは

 

ゆげがてんじょからぽたりとせなかにー

 

つ め て え   なーーーー

 

 

 

 

あははははーーーーーっっっw

と小2くらいの女子がふたり通り過ぎて行った、、、、、

くーーーーー!!!

日本も捨てたもんじゃねえな!!

 

わたしはひろがりがあるものや宇宙だったりドゥルーズがすきですが、寅さんや社長シリーズとかみたいな日本くさいものも大好きなのです。

時々ものすごい日本臭いものに埋もれていたいとおもうときがあります。

そういうものを排除していかなくてはいけないと思うときもあれば情の塊のような一つの世界感にどっぷり浸かりたい、このまま死にたいと思うときもありますー。きょうはこのままくっさい焼酎でものみたい衝動にかられましたとさ。

 

 

 

 

 

 

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反復

おなじものがくりかえされる、版画。

なにかの模倣の芝居。

なにかすでにあるものを反復することが似ています。

 

 

「反復」とはおなじものをただ繰り返していくことではなく、少しずつ変化し前に進んでいく流動的な意識が必要と、ドゥルーズもいっています。多分。


芝居はある感覚を呼び起こしそれを模倣していく。その流動性は同じことをしても激しく変化し身体を感じざるを得ない。

それが好き。

 

 

どんな、小さな出来事も、つねに変化しとどまることなく流動している。皆一緒だと思った瞬間から人間の思考も可能性も止まる。

小さな変化を見逃さない感性が大切ですね〜。

 

 

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未熟者

自分は本当に未熟者だと最近つくづくおもう。なにもかもが私なりの解釈で出来上がってしまっているため、34歳にもなっていろんなものをちゃんと理解してきていない。政治も経済も美術史でさえも。世の中のしくみというものにからっきし弱い。思えば小学校の算数の2桁➖1桁を暗算でしろ!!という命令からすべては始まった気がする。ぜんぜんできないのですーいまだに。言い訳ですけどね。 でも基本的に頭は弱いんですよね、これは私にあったことある人にはすぐわかると思います。合理的な人間ではないので時に人をいらつかせます。

でもバカだからこそ続くものってあると思うんですよ。わからないからできる、みたいな。と最近は自分をよくなぐさめていますw。ぱっと人目をひく変人ということではなくて、奥深いばかになるのが私の理想です。いまはまだバカと思われないように取り繕ってしまっているので、そこにはまったく到達できていません。はは、人生ながし。

 

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自分と他者

人にわかりやすいものとは?
前の作るクセの続きどすえ。
人にわかりやすいのを描けと行ってくれた人たちは単にレベルをさげろ、
みんながみえているものをつくれといっているのではない
ことはわかっているつもりです。(そういう人も中にはいたのかな?)
時代を読み、そこに通じるもの、求められているものを発信していく、
それもまたすごく大変なことで尊い作業ですね、んなことわかってますよ!
ただ、分かりやすくすることがレベルを下げることになっているケースもありますよね。それでは文化は進歩して行きません。
むづかしいところではありますが、、、、。
自分のみえている先端のもののレベルは変えず、
アプローチとして
如何にわかりやすく噛み砕いて提示させるか、
これがきっと皆のいうもので、
私に足りない力なんだろうなとおもいます。
人間というものは生まれた以上外にも開いた状態で、他者とか関わらなくてはいけない存在なんだ、ということをもっと意識しなくてはなりまへん。
頑張りますわー。
ただ、本当に必要なのかはまだ疑問です。釈然とはしません。笑。

 

 

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作るクセ

わたしは

 

絵を描くにしても、

台本をつくるにしても、

 

 

いつもわかりにくいもの、

言語化されていないものに焦点をあてる

 

 

があります。

 

 

 

癖とかいたのは、それがいいことなのかわからないからです。

 

 

 

人にわかりやすいものを作れと学生の頃からいわれてきました。

 

が、そうしたからといってどうなりますか?

 

私には求めていきたいものがあるのに、

 

それに蓋をしたら私の生はなんの意味ももちません。

 

 

 

何のためにものをつくるか。

 

自分のためです。

 

 

 

ただ、私はそれがマスターベーションのためではなく

 

引いてはそれが世界のため、

 

人類の謎解きになるようなものをつくりたい!

 

 

 

そのためには己の宇宙をただ見つめて表現するしかありません。(己の宇宙なんて言葉は胡散臭くなるのであまりすきではないですが、、、。)

 

 

自分のみえているギリギリを提示する。その際には感覚は停止していてはいけません。

 

 

フル稼働です。

 

爆発だ!といった類にはならないようになるべく理性的に作業をしますん。

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みなさん、劫という時間の単位をご存知だろうか?

 

「4年に一度天女が舞い降りてきて一里四方の大きな岩を羽衣でさーっとなでてその岩がなくなるまでの時間の単位」

 

浪人時代にこの話を聞いて、途方もなさに言葉が詰まった事がある。生きているうちにはお目にかかれないであろう時間の一瞬だ。いろんな時間の流れ方が存在するんだということを色々考え出したのもこの単位を知ったのがきっかけだった。

刹那的時間、自分の人生の目的達成のための合理的時間、宇宙的時間、、、、。

 

岩がなくなるの見れないー、、、、。

 

そう思った時の途方も無い大きな感覚。

 

このことばから頂いたじわりじわりと浸透してゆくイメージは今も大切にしています。

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デッサン

Facebookでもシェアしたことなのですが、ここを読んでいる方にも是非読んでいただきたいブログです。勝手にご紹介してしまってますが、大丈夫なのだろうか?後ほど連絡をさせていただきます!

http://izoomi-momo.jugem.jp/?eid=1243701

 

 

本当に素晴らしいんです、デッサンって。美術を学んでいない方も絶対やればいいのにといつも思うのです。ものの見方、私は人生観が変わりました。コレ本当です。

 

 

デッサンの方法論はいくらでもあります。

 

こうすれば上手くなるという、結果だけ教えていればそれで上手くなるかもしれません。ただそれでは小手先の技術が身についただけでデッサンの一番優れた部分の物事を思考する力は全く身についておりません。

 

 

 

本質には全くたどり着いてないっチューことです。

 

 

これはとても勿体無いことで、多くの方は時間が無いからという理由でデッサンにかける時間を効率化し早く上手くなろうとするか、やらないかです。

 

デッサンはただ絵が上手くなるだけの方法ではありません。それだけに押し込めてしまうと本当に悲しくなります。

 

しっかり描けるようになると自分の位置が見えてくる。

それが世界に、さらには宇宙にまでつながると言う方もいらっしゃいます。

ただ見て描くということも突き詰めれば思考を変えるだけの力があるのです。

 

ただそこまで理解するには一つ一つ自分で描いて気づいていくしか方法はないのです。正直、長旅です。

 

私はどんな人間でもやる必要があると思うので、例え時間がかかっても頑張って欲しいです。特に今まで合理的に生きてきた方には是非やっていただきたい、、、。

 

またこれについてはゆっくり書きます。。。

 

 

 

 

雨ジャーーー

 

 

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和紙の華咲くアート展

いよいよになりました!

和紙の華咲くアート展! 昨日展示作業を無事終えました。大変でしたが経験としてはすごく楽しい展示でした。

様々なジャンルの作家さんが集まっています。

 

展示の下手くそな私としましては、かなーり勉強になりやした!!

いろいろ吸収して大きくなります、、、、。笑

 

 

花菜ガーデンは比較的最近できた植物園で園内にはローズガーデン、チューリップ、紫陽花、、、等四季を通して楽しめる植物が自生しております。スタッフの皆さんも気さくな良い方達です!

あと近くには農協のあさつゆ広場があり、新鮮なおいすぃ食材を買って帰れますよ!

 

強引に私の話に戻しますと、今回の展示は植物園ということで、植物の自生する勢いを制作に取り込んでいた私としては縁のあるお話だなと思いとても嬉しく思いました。

 

4月29日〜openです!!私は13:00にはいる予定ですので是非遊びにいらしてください〜!!!  

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リアリティ

リアリティを感じる
ということはよっぽど感覚が鋭敏なときでないと
感じられない感覚だとおもう。
リアリティという言葉の意味が
日常でも使われるものなので単にリアルだとか、
本物っぽいとゆうような感覚でつかわれているから
余計わかりづらい。
美学や美術、哲学で使われる際の
リアリティ
の言うところの言葉は新しく作ればいいのにと思う。
自分がここに在るということをありありと感じる感覚だ。
人の話や絵を聞いたりみたりして、現実と比べて
「リアリティがあるね」
とゆう感覚とは訳がちがう。
私は生涯に本当の意味で感じたことはほんの数回。
はっきり感じたのは23歳の一回だけ。
頭がボーっとしてるときなんかは全く感じれないです。(でも以前書いた、脳をつかいすぎた多摩美受験のときは別でしたが。) 雑多なことにうもれてると、なかなか感じれないんだなー、これ!
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ひょうげんの動機

アートプログラム青梅会期が来週までとなった。アートの文脈からの思考もさることながら自分の制作を真摯に行っている作家が殆どだった事に驚いた、皆さんの作品を拝見して、『連綿と』『つらなり』というワードがずっと頭の中をグルグルしていた。シンポジウムの際にも話に出ましたが、作家の崇高性という話で、やはり何かを作るという行為は時代を超え、普遍的なものに触れれる唯一の機会なのである。そこを見据えず制作する事も出来るがやはり私にそれはできないと強く思った。ただ、アートの文脈にのみ縛られる事もしたくはない。

私の表現の唯一の目的はこの世界の成り立ちを探るという事、自分の先端に常に立ってそこを掴んでゆく事それのみだ。人間は何のために行きているのかその大前提抜きに私達は生きている。 自分の先端に見えたものを公表し、例えばそれを違うジャンルの人がみてイメージを膨らませていくといったようなことだ。それぞれが宇宙の構造をふくんで生まれたのだからそれぞれの人がその人にしか見えない先端を公表しあえばなにか突破出来るかもしれない、なんて風に考える。ただそれは途方もない事であるがとにかく私は自分の先端のみ見据えていけばおのずと急がば回れで普遍に触れる事が出来ると信じています。

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アートプログラム青梅2015

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きもすき

中学の理科の先生で、

若い頃鼻の頭にたまった油を定規でコソギとり、ティッシュに含ませていって数ヶ月たっていい感じになったら火をつけた、とか、


鼻毛を根元から抜いて立てていって盆栽みたいにして眺めたとか、


気持ち悪いけどなんだかたまらない話で好きだったなあ、とゆう覚え書き。

 


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膚2

つづき

 

 翌週から土曜日になると父が皮膚科に連れて行ってくれるようになりました。  皮膚科での診断は水いぼ。  

ドライアイスで表面を焼き、内服薬としてはと麦など肌によさそうなものが凝縮された錠剤を一回20粒ほど飲む。

とゆう治療方法で進められた。 

錠剤20粒は面倒だったが我慢できた。ぎゃふん といったのはドライアイスだった。まるで根性焼きだった。 

 

腕のヒフの柔らかいところをドライアイスでじんわりと水いぼ一つ一つを焦がしてゆきます。

 

これはもういじめじゃないですか。

 

 

一日経つと焦がしたところは黒くなり、やがて薄い皮膚がはがれる。

その間、腕はとても汚くお見せできないのでガーゼで隠すか関節を常に少し曲げて陰にみせるとゆう習慣がついた。

なのでいつもちょっと腕の関節が曲がってる子とゆう感じになった。

たまにガーゼを忘れた体育がバレーボールの焼いて二日後とかのヒがあったりすると腕を0−プンにせざるをえないので恥を忍んでアンダーをしたりもしたし。

 

根性焼き通いを完全にしなくてよくなったのは中1ころであったが、その頃には新たな悩みも浮上していた。

 

それは、乾燥はだだ。

保湿をしないとすぐわれた砂漠の大地のようになり、夏場でも足は老人のようにいつも粉を吹いていた。

 

一般的に、アトピー性皮膚炎のひとはほとんどが乾燥肌であるらしく、ヒフが乾燥して水分を奪われ免疫機能が低下するとはだあれが生じるのだそうで、それを未然に防ぐためにも乾燥肌の人の保湿とゆうものは死活問題で、風呂あがってすぐクリームとゆうのは私にとって呼吸をするのと同じくらい必要不可決な事であった。

 

 

他人とゆうもののなかに自分をおく事で自他との距離を把握し、あまりにも差があったら埋めてみたり、またその差から自分の個性を見つけ出す事が出来たりするなど、他人と関わるとことは大事であるということはわかるのだが、それは大人になってからなせる技であって、思春期真っ盛りの多感なあの時期の私には他人のなかに自分を置いてみるという行為は  苦痛  以外のなにものでもなかった。

 

他者といることではじめて自明となる自分との隔たり。それがプラスになることならばいい。

 

自分が優位にたてることならば。

 

そうではなくただたんに自分のDNAが友達よりもあきらかに劣っているという事実。

それにただ感服するしかない自分。

それをうけいれるということがあのころのわたしにはとてもつらかった。

修学旅行でお風呂に入り、はじめてみる友達の裸、ヒフ。

そこにはわたしが渇望していた水分保持能力がきわめて正常なヒふがあった。、少しひっかいただけではビクともしない健康なヒフ。

健康なヒフ。そのあたりまえとゆう奇麗さに私はうちのめされてしまった。


こんなにまでも違うものかと。いくらがんばってもわたしはあのこのハダニはなれない。

 

 

 

ただ、昔の私にはこんな事が日常的な悩みだったのですが今にしてみると鼻くそみたいな物になってしまいました(笑)年をとるってすごい!

 

電車の隣で離していた高校生の悩み話を盗み聞いていて、思い出したのでばーーっと書いてみました。

 

 

 

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わたしがは、いつも明るく、努めて前向きに人生を送っている方の人間ですが、 こと皮膚になると私は生身の自分に真剣に向き合わざるを得なくなり、ただただ嫌悪する負の人間になる。そこには笑いの要素は一つもない。

 

そして皮膚というものを考えだすと真摯に向かい合う人間になる。(皮膚に)

というのも、私は幼少の頃からアトピー性皮膚炎でみんなと少し違う自分の肌にかなりのコンプレクスをもっていた。その頃通院していた皮膚科でレベルが強めのステロイド剤を処方されており、たちまち良くなる魔法のようなステロイドとして、全幅の信頼を寄せ使用していましたが、気がついた頃には顔の皮膚が薄く、毛細血管が拡張し、赤ら顔になっており、まんまとステロイドの副作用なるものにやられていたのです。ただ、ステロイドを使っていたおかげで掻き崩す事はなく、パッと見、アトピーであるとは周りに気づかれる事なく酷くなる手前で押さえることが出来た点では、ステロイドは表彰もの。

 

 

アトピーが少し収まってきた矢先、私は自分の腕のはらのところに一つ二つ、突起物ができているのを発見した。あれは小3の5月頃のひと遊びするとじんわりと汗がでる季節だった。

汗をかく。

関節の裏に汗をかく。

蒸れる。

ふやける。かゆいかゆい。

かゆい。

 

かいちゃった。

また汗をかく。かゆい。核。

そのくりかえしです。そんな日々の繰り返しを黙って見過ごし、その日もまたいつものごとく腕を掻く。そのとき、とある引っかかりに気づく。でも勢いでかいてしまった。

 

 

突起物があったことを思い出す。、がそのときにはもう遅い。突起物はとれて真っ赤な鮮血が滲み出ていた。私は自分の腕をじっとみつめ、固まった。血が出た。それをみて固まったのではない。そんな事は掻いた瞬間の自分の力加減でにわかっていたことだ。そんな事ではないのだ。私の目は潰れた溝から吹き出す血のその隣、またその下、そのまた左上また右隣___と限りなくで自分の腕に蜂の巣状にびっしりと巣食うおびただしい数の突起物をとらえたのです。

 

気持ちが悪い。

 

すさまじい不快感におそわれる。キ持ちバルイ   

でもめがはなせない!!気持ち悪いものはいやだ!でも、みたい! そのときの全身の毛穴から回虫がはいずってくるようなあの感じとゆうものは今でもはっきりと思い出せます。突起物なのだが、あまりにも密集し、あまりにも量が多かったので。触った感じでは平にかんじる。だからしばらく気がつかなかった!しかしよくみるとその実態は突起物の集積であり、決して皮膚ではない。

 

つづく

 

 

 

 

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かちかち

万年肩こりだ。


肩が凝りだすとあたまのかいてんがわるくなる。できるものがなんか固くなる。だからなるべくはやくねてストレッチをしてぐにゃぐにゃの状態で制作しなくてはならない、わたし。

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すきなもののかんじ


話していて、完結した言葉の感覚で話してる人、決めてかかって固めて話す人をみると、んーって思う。

いいとか悪いではなくて、んーって感じ。(笑)自分もその方が楽だから気持ちはわかるので。

いい意味で言葉に幅を持たせて開かれた感覚にさせてくれる人と会うと心が解凍されます。例えばそれはドゥルーズでした。



反復と差異の中で、何かと何かの差異を考え出すと、まずそのものたちの同じ部分を基準にし、そこからの違いを考え出す。そうすると差異を考えていたはずなのに同一性が、テーマになってきてしまう。これをきいてなるほどなーとおもい、さらに同一性は結果としての視覚的なものだけであるからそこを重要視するのは違う‥とゆうような部分にまた興奮した(笑)

   

以下引用  ドゥルーズキーワード

「同一性は視覚的な特殊効果であり、正確に同じ状態が観念としてであれ物体の状態としてであれ、再現されることはない。」


「同一性は生成のプロセスの途中で生まれる一つの「結果=効果」にすぎず、決して前提にも原理にもなりえないということだ。」


「あらゆるものは一瞬たりとも同じものに留まることのないさまざまな運動や変化が寄り集まったものなのだ。」


「物が動くのではなく、物の存在そのものが運動であり、差異なのだ。

常に変化し流動している。」


ベルクソンに影響もうけているみたいなのでもはや誰の考えかはどうでもいいです。単純にこの文章がひっかかったのです。







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ワガママ

文章はただの文字だから、自分で引っかかるものしか読み取らない、と昔恩師から聞いたことがある。

確かにそうだなとだんだんわかってきた。本をよんで引っかかる部分のみを抜粋していくと、私の考えたいことが、塊としてみえてくるー。いつのまにか自分の言いたいことがどっかに載ってないかなって感じで漁っている。

同意したり、なんかこいつ違うなと思ったり‥。本読むときはいつもこっち主導です。いつだって。ワガママでもいいじゃなーい。

寒い

この間寒かった日、アトリエでカップ焼きそばを食べた。ぺやんぐ。
寒くなると決まっておもいだすことがある。
七年くらい前、終電を逃してしまい二駅程歩いて帰ったときがありました。深夜一時頃。骨の芯まで冷える様な底冷えのする日でなんかちょっと辛かったのです。その途中、コンビニの先のほうにホームレスの方がいる影がみえました。こんな夜にこそホームレスの人はどう過ごすのかと少しの憐みの気持ちが湧いてみてみると、

なあんと、

カップラーメンを食べていた!

顔が見えなくなるくらいの湯気をたてながら、さも美味そうに!

いや、ホームレスがカップラーメンを食べていて全然いいのですが(笑)、思いのままに、何の縛りも受けず人の通る道の傍で、カップラーメンを食べる彼に私は敗北をかんじました。自分はいつの間にこんなに固くなってしまったのか。無意識にありとあらゆる縛りを自分に与えて身動きがとれなくなっているのかもなぁ‥。一瞬でもホームレスをあざ笑っていた自分を恥じた。
社会に人並みに順応していきてきた自分の現在を無に感じた。こんな話をすると大体の人は順応して生きていけることの素晴らしさ、仕事におわれ、人間関係に翻弄されて生きる事の学びの多さについて語るものだが、その裏には自分の現状を価値のないものにしたくない、人よりも優位にしておきたい精神が働いていることに大抵気付かない。こうした話をした時にただ頷いて同意の意を示してくれる人を私は友と思っている。人間誰しも大差はない。人間はあまりにも自由に曖昧にいきられすぎる。

そしていま思うのは寒いのになんでやきそばにしちゃったかってこと。




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