2017年

6月

29日

実感

ひとつのことに実感するのにけっこうな長い長い時間を要したりしますよね。

ずいぶん前ですが、制作でやりたいことが山積みで、とにかく手を動かしたいという欲求が強い時期がありました。あーだコーダをくりかえし、一年経って、[あ、奥行きがだしたかっただけなのね]と気づきました。絵で奥行きを出したいなんてみんなが考えること、模索すること、当たり前のこと過ぎてとっくに自分はそんこと考えていないとおもっていたのですが、じつはそんな単純なことを体は理解したがっていたという事実にびっくりしました。

そこで奥行きを出したい!と模索して得たものは強い柱があるような感覚としてのこっています。やはり手を動かすこと、体を動かすことでしか会得できないものは確実にあって、そこからの実感はなによりも強いものになるんだとおもいます。

その回路を増やしてけば本当のいみで [わたしの感覚として] 世界が掴めるんだなー。


よく言葉にできないのは理解していないと同じという言葉を聞きますが、それは本当にそう。でも言葉に換言できなくて固まりとして放置することも重要なきがするのです。なんとなくわかるという感覚、言葉では拾えない感覚があるからこそ表現というものが必要。なんですよねー

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2017年

2月

06日

すりあわせ

以前は孔子よりも老子が好きでした。

今でも好きですが。


論語は人間のつくった社会の中での話で


なんか窮屈だなー


と感じてしまっていました。


最近結婚しまして、日常を前にすると孔子も


けっこう良いこといってるんだなー、、


と思ったり。(偉そうw)



今まで避けてきたものの中にまだまだ

わたしの知らない良いものは転がっているんですよね。


ただ、その直感で避けてきたって事によっ


て、その人をその人たらしめているわけです


からね。


ひとそれぞれ塊は違うわけですよね。


大人になったら価値観なんてそう簡単に変わらない。



ただ結婚って、他人の価値観を嫌でも受け入れなくてはならない。それも表面的にではなく、自分の骨身に染みるまで一回深く入れないといけない。


それで絶対無理となるひともいればうまく融合していく場合もある。


固まった価値観を他人と練り合わせてより柔軟で強いものにしていけるのが結婚なんだって思いました。最近。


よく人生は一人でいきるのが辛いから結婚したほうがいいと聞きますが、もっともっといいもんで凄いことじゃんか!!と思っています。最近。



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2016年

4月

28日

デッサン

Facebookでもシェアしたことなのですが、ここを読んでいる方にも是非読んでいただきたいブログです。勝手にご紹介してしまってますが、大丈夫なのだろうか?後ほど連絡をさせていただきます!

http://izoomi-momo.jugem.jp/?eid=1243701

 

 

本当に素晴らしいんです、デッサンって。美術を学んでいない方も絶対やればいいのにといつも思うのです。ものの見方、私は人生観が変わりました。コレ本当です。

 

 

デッサンの方法論はいくらでもあります。

 

こうすれば上手くなるという、結果だけ教えていればそれで上手くなるかもしれません。ただそれでは小手先の技術が身についただけでデッサンの一番優れた部分の物事を思考する力は全く身についておりません。

 

 

 

本質には全くたどり着いてないっチューことです。

 

 

これはとても勿体無いことで、多くの方は時間が無いからという理由でデッサンにかける時間を効率化し早く上手くなろうとするか、やらないかです。

 

デッサンはただ絵が上手くなるだけの方法ではありません。それだけに押し込めてしまうと本当に悲しくなります。

 

しっかり描けるようになると自分の位置が見えてくる。

それが世界に、さらには宇宙にまでつながると言う方もいらっしゃいます。

ただ見て描くということも突き詰めれば思考を変えるだけの力があるのです。

 

ただそこまで理解するには一つ一つ自分で描いて気づいていくしか方法はないのです。正直、長旅です。

 

私はどんな人間でもやる必要があると思うので、例え時間がかかっても頑張って欲しいです。特に今まで合理的に生きてきた方には是非やっていただきたい、、、。

 

またこれについてはゆっくり書きます。。。

 

 

 

 

雨ジャーーー

 

 

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2016年

4月

02日

信じる

何かを信じることは大切なことなのですが、芸術に関して言えば信じるというスタンスは捨てるべきだとおもうのです。

 
知ることは大事だし好きな作家等いて然るべきとおもいますが、普遍的な事や自分の内側からでてきたもの以外は信じるべきではない。
 
その基本スタンスができていないでしがらみや色んなよけいなものばかり気になるようなら本質にはたどりつけませんよね。 
 
自分に言い聞かせる意味でも書きましたが、現代がクリアな芸術界になってほしいなとゆう思いを込めて、、、。
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2016年

2月

28日

リアリティ

リアリティを感じる
ということはよっぽど感覚が鋭敏なときでないと
感じられない感覚だとおもう。
リアリティという言葉の意味が
日常でも使われるものなので単にリアルだとか、
本物っぽいとゆうような感覚でつかわれているから
余計わかりづらい。
美学や美術、哲学で使われる際の
リアリティ
の言うところの言葉は新しく作ればいいのにと思う。
自分がここに在るということをありありと感じる感覚だ。
人の話や絵を聞いたりみたりして、現実と比べて
「リアリティがあるね」
とゆう感覚とは訳がちがう。
私は生涯に本当の意味で感じたことはほんの数回。
はっきり感じたのは23歳の一回だけ。
頭がボーっとしてるときなんかは全く感じれないです。(でも以前書いた、脳をつかいすぎた多摩美受験のときは別でしたが。) 雑多なことにうもれてると、なかなか感じれないんだなー、これ!
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2015年

11月

09日

ひょうげんの動機

アートプログラム青梅会期が来週までとなった。アートの文脈からの思考もさることながら自分の制作を真摯に行っている作家が殆どだった事に驚いた、皆さんの作品を拝見して、『連綿と』『つらなり』というワードがずっと頭の中をグルグルしていた。シンポジウムの際にも話に出ましたが、作家の崇高性という話で、やはり何かを作るという行為は時代を超え、普遍的なものに触れれる唯一の機会なのである。そこを見据えず制作する事も出来るがやはり私にそれはできないと強く思った。ただ、アートの文脈にのみ縛られる事もしたくはない。

私の表現の唯一の目的はこの世界の成り立ちを探るという事、自分の先端に常に立ってそこを掴んでゆく事それのみだ。人間は何のために行きているのかその大前提抜きに私達は生きている。 自分の先端に見えたものを公表し、例えばそれを違うジャンルの人がみてイメージを膨らませていくといったようなことだ。それぞれが宇宙の構造をふくんで生まれたのだからそれぞれの人がその人にしか見えない先端を公表しあえばなにか突破出来るかもしれない、なんて風に考える。ただそれは途方もない事であるがとにかく私は自分の先端のみ見据えていけばおのずと急がば回れで普遍に触れる事が出来ると信じています。

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2015年

10月

02日

制作中から一段落

青梅に出す作品を一区切りつけました。

アトリエからの帰り道、

家の近くに出来た新しい道を思い出して歩いてみた。

どう考えてもいらない道。出来た所で混雑緩和にもならないし。

本当に意味が分からない。税金の無駄遣いしていらない道路作りやがって、、、ボロクソに思っていた道路。 

歩いてみたら今まで見えなかった位置から色々見えてこれがこの道の良い所かとムカムカしなくなった。

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2015年

10月

02日

文章キケン

言葉や文書はとても危険です。

ただ単に疲れて一息付き、ひとたび文章をかきだす。

するとなんだか、妙にカッコよくなる。

 

一息ついた自分を正当化し意味をみつけてなんだかカッコよくしてしまうからでしょうか。

 

後で見返すと何だかはずかスィー思いをする人はわたしだけではないず!

なんだか妙に自分によってしまう、

麻薬ですよね。

 

 

 

ただ単にこしをおろしただけなのにそれがすごく重大なことのように感じられる。言葉しかないから想像力をかきたてられフューチャリング力が半端なくなるからだろう。

 

やばい。

 

なるべく酔う一歩手前でやめているつもりですが、もしこそばゆいんだけど、とゆう方がいたら教えてください。

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2015年

5月

01日

きもすき

中学の理科の先生で、

若い頃鼻の頭にたまった油を定規でコソギとり、ティッシュに含ませていって数ヶ月たっていい感じになったら火をつけた、とか、


鼻毛を根元から抜いて立てていって盆栽みたいにして眺めたとか、


気持ち悪いけどなんだかたまらない話で好きだったなあ、とゆう覚え書き。

 


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2015年

4月

23日

膚2

つづき

 

 翌週から土曜日になると父が皮膚科に連れて行ってくれるようになりました。  皮膚科での診断は水いぼ。  

ドライアイスで表面を焼き、内服薬としてはと麦など肌によさそうなものが凝縮された錠剤を一回20粒ほど飲む。

とゆう治療方法で進められた。 

錠剤20粒は面倒だったが我慢できた。ぎゃふん といったのはドライアイスだった。まるで根性焼きだった。 

 

腕のヒフの柔らかいところをドライアイスでじんわりと水いぼ一つ一つを焦がしてゆきます。

 

これはもういじめじゃないですか。

 

 

一日経つと焦がしたところは黒くなり、やがて薄い皮膚がはがれる。

その間、腕はとても汚くお見せできないのでガーゼで隠すか関節を常に少し曲げて陰にみせるとゆう習慣がついた。

なのでいつもちょっと腕の関節が曲がってる子とゆう感じになった。

たまにガーゼを忘れた体育がバレーボールの焼いて二日後とかのヒがあったりすると腕を0−プンにせざるをえないので恥を忍んでアンダーをしたりもしたし。

 

根性焼き通いを完全にしなくてよくなったのは中1ころであったが、その頃には新たな悩みも浮上していた。

 

それは、乾燥はだだ。

保湿をしないとすぐわれた砂漠の大地のようになり、夏場でも足は老人のようにいつも粉を吹いていた。

 

一般的に、アトピー性皮膚炎のひとはほとんどが乾燥肌であるらしく、ヒフが乾燥して水分を奪われ免疫機能が低下するとはだあれが生じるのだそうで、それを未然に防ぐためにも乾燥肌の人の保湿とゆうものは死活問題で、風呂あがってすぐクリームとゆうのは私にとって呼吸をするのと同じくらい必要不可決な事であった。

 

 

他人とゆうもののなかに自分をおく事で自他との距離を把握し、あまりにも差があったら埋めてみたり、またその差から自分の個性を見つけ出す事が出来たりするなど、他人と関わるとことは大事であるということはわかるのだが、それは大人になってからなせる技であって、思春期真っ盛りの多感なあの時期の私には他人のなかに自分を置いてみるという行為は  苦痛  以外のなにものでもなかった。

 

他者といることではじめて自明となる自分との隔たり。それがプラスになることならばいい。

 

自分が優位にたてることならば。

 

そうではなくただたんに自分のDNAが友達よりもあきらかに劣っているという事実。

それにただ感服するしかない自分。

それをうけいれるということがあのころのわたしにはとてもつらかった。

修学旅行でお風呂に入り、はじめてみる友達の裸、ヒフ。

そこにはわたしが渇望していた水分保持能力がきわめて正常なヒふがあった。、少しひっかいただけではビクともしない健康なヒフ。

健康なヒフ。そのあたりまえとゆう奇麗さに私はうちのめされてしまった。


こんなにまでも違うものかと。いくらがんばってもわたしはあのこのハダニはなれない。

 

 

 

ただ、昔の私にはこんな事が日常的な悩みだったのですが今にしてみると鼻くそみたいな物になってしまいました(笑)年をとるってすごい!

 

電車の隣で離していた高校生の悩み話を盗み聞いていて、思い出したのでばーーっと書いてみました。

 

 

 

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