つづき
翌週から土曜日になると父が皮膚科に連れて行ってくれるようになりました。 皮膚科での診断は水いぼ。
ドライアイスで表面を焼き、内服薬としてはと麦など肌によさそうなものが凝縮された錠剤を一回20粒ほど飲む。
とゆう治療方法で進められた。
錠剤20粒は面倒だったが我慢できた。ぎゃふん といったのはドライアイスだった。まるで根性焼きだった。
腕のヒフの柔らかいところをドライアイスでじんわりと水いぼ一つ一つを焦がしてゆきます。
これはもういじめじゃないですか。
一日経つと焦がしたところは黒くなり、やがて薄い皮膚がはがれる。
その間、腕はとても汚くお見せできないのでガーゼで隠すか関節を常に少し曲げて陰にみせるとゆう習慣がついた。
なのでいつもちょっと腕の関節が曲がってる子とゆう感じになった。
たまにガーゼを忘れた体育がバレーボールの焼いて二日後とかのヒがあったりすると腕を0−プンにせざるをえないので恥を忍んでアンダーをしたりもしたし。
根性焼き通いを完全にしなくてよくなったのは中1ころであったが、その頃には新たな悩みも浮上していた。
それは、乾燥はだだ。
保湿をしないとすぐわれた砂漠の大地のようになり、夏場でも足は老人のようにいつも粉を吹いていた。
一般的に、アトピー性皮膚炎のひとはほとんどが乾燥肌であるらしく、ヒフが乾燥して水分を奪われ免疫機能が低下するとはだあれが生じるのだそうで、それを未然に防ぐためにも乾燥肌の人の保湿とゆうものは死活問題で、風呂あがってすぐクリームとゆうのは私にとって呼吸をするのと同じくらい必要不可決な事であった。
他人とゆうもののなかに自分をおく事で自他との距離を把握し、あまりにも差があったら埋めてみたり、またその差から自分の個性を見つけ出す事が出来たりするなど、他人と関わるとことは大事であるということはわかるのだが、それは大人になってからなせる技であって、思春期真っ盛りの多感なあの時期の私には他人のなかに自分を置いてみるという行為は 苦痛 以外のなにものでもなかった。
他者といることではじめて自明となる自分との隔たり。それがプラスになることならばいい。
自分が優位にたてることならば。
そうではなくただたんに自分のDNAが友達よりもあきらかに劣っているという事実。
それにただ感服するしかない自分。
それをうけいれるということがあのころのわたしにはとてもつらかった。
修学旅行でお風呂に入り、はじめてみる友達の裸、ヒフ。
そこにはわたしが渇望していた水分保持能力がきわめて正常なヒふがあった。、少しひっかいただけではビクともしない健康なヒフ。
健康なヒフ。そのあたりまえとゆう奇麗さに私はうちのめされてしまった。
こんなにまでも違うものかと。いくらがんばってもわたしはあのこのハダニはなれない。
ただ、昔の私にはこんな事が日常的な悩みだったのですが今にしてみると鼻くそみたいな物になってしまいました(笑)年をとるってすごい!
電車の隣で離していた高校生の悩み話を盗み聞いていて、思い出したのでばーーっと書いてみました。
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